ものごとの本質

今日の毎日新聞の余禄にこんなパラドックスが紹介されています(http://mainichi.jp/select/opinion/yoroku/archive/news/20100424ddm001070010000c.html)。「アメリカの初代大統領ワシントンが桜の木を伐ったとされる斧を見せ物にしている御仁。しかし手にしているその200年以上経っているはずの斧は,どこからどこまでも新しい。そこで見物客がそんなことはないといちゃもんをつけると・・・,200年以上経っているその証拠に,刃のついているヘッドは2度,柄は3度も交換している!!とのたまった。」というもの(記事をそのまま掲載できないので,かなり改変・意訳しています)。


これは,テセウスの船(ギリシャ神話のミノタウロス伝説に登場するテセウス王が,クレタ島の牛頭人身の怪物を退治した後,島から脱出するために乗ったという船)と呼ばれる話のバリエーションの一つで,哲学でいうところの同一性に関する思考実験として知られているものだそうです。要するに,物は部品が全部替わっても同じ物かという古くからのパラドックスです。今でも英語で「Grandfather's old axe」という表現はよく使われますが,これは,本来のことがほとんど残っていないものに対して使われる言葉です。毎日新聞の余禄の記事で取り上げている「ワシントンの斧」は,英語では「George Washington's axe」として,パラドックスというよりは古典的なジョークとしてよく使われています。なぜジョークになるかといえば,「ワシントンは,まだ幼い頃にお父さんが大事にしていた桜の木を斧で伐ってしまいましたが,そのことを正直に告げたおかげで,お父さんに叱られるどころか嘘をつかずに正直に話したことを褒められた」という有名な話が,そもそも後世になって考えられた作り話だったことを誰もが知っているからです。ちなみに蛇足ですが,この逸話には後に論争を引き起こすポイントがあって,ワシントンはお父さんに桜の木を伐ってしまったことを正直に告げてはいるけれども,決して謝ったわけではないのに,褒められても良いのか?という,ぐあいです。


さてさて,ワシントンの斧やコラム記事の趣旨とはまた違って,我々自身のことにあてはめて考えると,このパラドックスはなんとも深い哲学になるなあと思った次第。つまり,われわれの体について細胞レベルで考えると,生まれてこの方更新に次ぐ更新を繰り返していて,ほんの1年前の自分と比べてみても果たしてまったく同じ細胞がどれだけ生き残っていることか。こう考えると,ものごとの本質をとらえること,つまり我々科学に携わるものの骨格をなす仕事とは,本当に一筋縄ではいかない仕事なのかもしれません。